突然ですがみなさんは、就活中の後輩や子供、弟などの大切な知人から「これからの20年、30年を見据えて、どのような仕事に就くべきでしょうか?」という無邪気な質問をぶつけられた時、どんな風に回答しますか?
2022年のChatGPTのリリース以降、多くのコンサルティングファームやシンクタンクが、「AIによって人間の仕事が失われていく」という文脈のレポートを発表してきました。近年では、こうした見方を反映した見出しの記事が、さまざまなビジネスメディアでも頻繁に取り上げられています。
それらの記事における未来予測は、おおむね次のようなパターンに集約されることが多いです。
- AIに代替されない領域、特にエッセンシャルワークを人間が担い続けるという予測
- 社会に付加価値を生み出せる一部の人を除き、多くの人が失業するというディストピア的な予測
- AIがほぼすべての仕事を代替し、人間の多くは好きなことをして過ごすという、ベーシックインカム的な予測
結論としては、「新しいスキルを身につけなさい」「AIに代替されにくい職業へ転換しなさい」といった形で、「AI失業に備えよ」というメッセージに収束するものがほとんどです。このような文脈に触れるたびに私は、「いかに隣の人を出し抜き、残されたポジションを確保し続けられるか」という、椅子取りゲームのような印象を受けてしまいます。
もちろん、短期的な視点で見れば、人手不足の業界への人材流入やリスキリングの促進など、AI化によるポジティブな側面も、その過程の中で生まれていくでしょう。しかし、中長期の時間軸で見たときのあるべき像については、あまり語られていないように感じています。
言い換えれば、自分の子どもや弟、あるいは後輩といった20歳前後の若者から、「これからの20年、30年を見据えて、どのような仕事に就くべきでしょうか」と相談されたとき、私は「しばらくAIに代替されないようなスキルが身につく仕事」や「AIに代替されにくいエッセンシャルワーク」を勧めることに、どうしても違和感を覚えてしまいます。
そこで今回は、少しだけ中長期的な視点に立ち、「どのような社会をデザインしていくか?」というテーマで記事を書くことにしました。
①そもそも、誰もが仕事をしない未来は成り立つのか?
まず、このテーマを考える上で「仕事」とは何か?という出発地点から考えてみましょう。Web上の文献などから、仕事の概念の解釈や定義を下記の3つの側面に大別してみます。
- 経済活動としての側面(生活の為の資金を得ること)
- コミュニティや自己実現の側面(コミュニティ内での関係性や自身の有用性の実感)
- 義務や根源的なアイデンティティの側面(社会に対しての自身の付加価値や差分の実感)
AI の社会実装によってもたらされる構造変化として、(1)の相対取引が成り立たなくなっていることが挙げられます。
つまり、社会への提供価値は少数のAIのオペレーションプレイヤーによりほぼ独占されるということは日々報じられている通りかと思います。代替されるまでのタイムラインについては、5年後から30年後などまちまちですが、AI 実装の費用対効果に合わないニッチな領域が引き続き人間の介在する付加価値として残るものの、時間の問題であり不可逆なものであるという認識です。
この場合、どこからどこまで AI に代替されるかという議論はあまり本質的ではなく、従来の「付加価値」で語られるの業務の大部分を、ごく一部の人口で賄えるという未来が既定路線である点こそが重要です。
これまでの資本主義では、勝者総取り(Winner-take-all)方式によって一部の企業に富が集中することは多々あったものの、 雇用による富の再配分というエコシステムを前提として、資本主義は成り立ってきたのです。
※日本では 1.36 万社(全体の 0.3%)の大企業が、雇用投資と事業拡張を通じて全雇用者の約 24〜29.9%(約 1,433 万人)を吸収してきました。
今回のAI による転換点は、集約された富を雇用や人へ再配分するというコンセンサスが成り立たなくなっている点(= 社会全体の労働吸収力が大きく低下していくこと)に尽きます。
その結果、これまで資本主義を成立させてきた「暗黙の了解」のような不文律が破られ、産業の労働吸収力は急速に下がっていくことになります。
こうした状況が進むと、社会システムの維持のため、国はインフラとしてのベーシックインカムの段階的な導入の議論が進みます。しかしその根底には、「社会に参画できない人へは一定の生活は保証するから、良い子にしていてね」という前提を含む仕組みでもあるのです。
② コミュニティや自己実現の側面から見た「仕事」
では、コミュニティや自己実現という観点から「仕事」の役割を見ていきます。
労働の義務を免除された人は、果たして幸せになれるのでしょうか。
インドア派の筆者としては「それも悪くない」と思う部分もありますが、仕事には自己実現やコミュニティとしての側面があります。
社会やコミュニティに付加価値を提供し、社会的な存在意義を実感する場を失った例として、アメリカで主に白人男性を中心とした「絶望死」から学べる点があると感じています。
先進国の中でも成長を続ける経済大国であり、さらに食料のベーシックインカムのような制度(SNAP)まであるこの国で、働き盛りの白人の死亡率が 1990 年代末から年間約 2% 前後で上昇しています。主な原因は、自殺、薬物過剰摂取、アルコール性肝臓疾患など、いずれも自らを死に至らしめる行動による死、つまり「絶望による自死」が増えていることです。
絶望死が増えている明確な理由は諸説ありますが、彼らに共通する社会的背景としては、工業の機械化や発展途上国の安価な生産人員に仕事を奪われてきた過去があります。このような、社会から必要とされなくなった、つまり自己表現の場を失った白人層が、絶望による自死を選び、前回の大統領選でのモメンタムがそれらを象徴していると推測します。
つまり、生活がベーシックインカムで担保されたとしても、「社会への参画機会」や「自己表現の場」を剥奪されると、人は幸せとは言えないということが示唆されるのではないでしょうか。
③ 義務や根源的アイデンティティの側面からの考察
趣味や遊びなどの「消費活動」の中からでもコミュニティやアイデンティティは獲得できるのではないか?という「じゃあ遊んで暮らして友達を増やせば良いじゃん」という仮説もありますが、私はこれらの考え方についても、持続可能なものではないと考えております。
一説によると、狩猟採集時代の人間の死亡原因の 15〜20% は間引き(仲間による口減らし)だったと言われています。つまり人類史全体で見れば、人間は 600 万年前からコミュニティの中で付加価値を提供し、自身の有用性を示すことで生存権を獲得してきたことになります。
この原理は現代でも大きく変わっていないと感じており、現代の多くの人は社会や会社といったコミュニティの中で、自らの有用性を表現することで報酬や地位を確保し、そこに自己効力感(仕事のやりがい)などを感じるものと考えております。
ちなみに私は週に 5〜10 件ほど採用面接を担当していますが、求職者に対して「どんなキャリアを描きたいか?」ということを尋ねると、体感 8 割ほどが「誰かから必要とされる人間になりたい」という趣旨の回答をします。
つまり、多少の例外はあるものの、人間は自らの有用性を社会やコミュニティに示すことで、社会に存在しても良いという実感を得ることを欲求として持っており、その構造は 600 万年変わっていない、遺伝子レベルで染みついた価値観なのではないでしょうか。
そのような背景を踏まえると、自己表現の必要がなく、生存が保障される状態でみんなが遊んで暮らすという一件理想的に見えるライフスタイルも、人間の遺伝子的な習性に反し、より良く生きていく上での混乱やハレーションを引き起こし、「絶望死」などに繋がっていくと考えることができます。
結論:誰もが仕事をしない未来は成り立つのか?
以上を踏まえると、私はこの問いに対して No という立場を取ります。
人間は自らの有用性を勝ち取るための自己表現を必要とする存在であり、それは生きる上で極めて重要な要素だからです。
とはいえAI による技術や生産性の進化スピードは不可逆な中で、
ここからは “So What(ではどうするのか?)” を論じていく段階に入ります。
これまでの内容を踏まえ、命題を挙げるとすれば、
「その人らしさを如何に付加価値に変えていけるか?」
敢えて概念的に表現するなら、
「ロマンチックな社会を、いかにデザインするか?」
ということになるかと思います。
第二章では、如何にロマンチックな社会を作っていけるかについて考えていきましょう。